コロナ騒動が始まって半年以上経ちますね。
最初は「未知で謎のウィルス」ということでかなり恐怖心をあおられていましたが、今となってはそこまで怖がることもないという事が大多数の人に知られてきていると思います。
それはコロナに関する情報がアップデートされ、致死率がそこまで高くないことや、重症化する人の特徴などがだんだん知られてきたことなどがあるからだと思います。
知らないときは「とりあえず警戒」という考えが生じるのは仕方ありません。
しかし、知るようになってからもなぜか警戒態勢を解けないという現状がありますよね?
今朝、「街中にある謎対策」に関する記事を見ました。
例えば、あるビル内ではコロナ対策と称してトイレのペーパータオルをなくしているとか、ある図書館では本にアルコール除菌をするとか。
実際は、手を洗った後きちんと手をふくことは衛生的に良いことなのに、なぜかペーパータオルをなくしている。。(一体何の対策??)
図書館の本に関しても、誰かが触ったからという事で除菌しているのかもしれませんが、触った人が手を洗えばよいことで、紙を傷めてまで本自体を消毒するというのは合理的ではないと。
また、すでに2m以上離れているのにアクリル板のパーテーションを置いていたり。
実はあまり意味のない対策が未だに行われている現状があります。
記事には、感染症対策を盛ることは易しくても削るのは難しい、とありました。
「もしやめて感染者が増えたら・・」と考えると、あまり意味がないと薄々分かっていてもやめられない心理があると。
それで「一応やっておこう」という事になるわけです。
感染者が出ると途端に風評被害が発生しますからね。
感染症対策をしている人にヒアリングをしてみても、「根拠がない」と気付いている人も結構いるらしいのですが、社会の空気的にやめられないと思っている人が多いようです。
人々が不安がるから。
もはや、感情論であって合理的ではなくなっている感じです。
私自身はこの記事を見ながら、世の中もそうなんだけど、これは私たちの教会の中でも言えることなんじゃないのかな?と思いました。
感染症対策についてではないですよ。
そうではなく、実は合理的ではないのに以前からそうしているからという理由でなぜかそのまま続けているという事。
昔からいる人はマヒしていて何も感じないだろうし、若い人も違和感があったとしても「これが摂理のやり方だから」と言われるとそうなんだと思ってしまうという事があると思います。
でも、変だと感じることは変なのだから変える方向に行かないと何も発展していかないと思うんですよね。
もし、薄々意味がないと分かってるけど今までやってきたことだから何となくやっているということがあるなら、十分に検討した上で、「やめる」という選択もアリだと思うのです。
それも復活の一つなんじゃないのかな?と。
私が新入生のころは韓国人の宣教師がいて、いろんなことが韓国式になっていました。
当時は宣教師に言われることが全て真理みたいな感じになっていたんですね。なので、自分はまだよくわからないし、違和感を感じていてもこれが摂理のやり方なのかと思ってとりあえず従ってました。
でも、自分が牧会するようになってから御言葉ではどう言っているのかに焦点を当てて考えるようになったところ、だんだん何が摂理式で何が韓国式だったのかを区別できるようになりました。
それで救いと関係ないと思われることはやめてしまいました。
最初は当時の先輩(今はいない人)からは文句言われましたけどね。
今は宣教師がいなくなってずいぶん経ちますからそういう違和感はあまりないでしょうけれど、今自分たちのやっていることに合理性があるのか、救いに必要なことなのか検討することは必要だと思います。
私の個人的見解では、「とりあえず」「一応」の中に無駄が多いような気がするんですよね。。
御言葉もどんどん更新されてます。
何事も、「今までやってきたから」ではなく、常に「今本当に必要か」を考えることが大事ですね。
なぜペーパータオル使用中止?「空間除菌」「2m以上離れたパーテーション」コロナ「謎対策」が生まれるワケ
https://news.yahoo.co.jp/articles/620462f0d770d57b0c54dc19558977af31d7ed73